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2007年3月号  page1  page2


「フィリピンのミレニョ台風」

台風で破壊された家々  二〇〇六年九月、台風一五号ミレニョ台風がフィリピンを襲い、何百万人もの人々が被害を受け、二百名の命が奪われました。OMF宣教師のアンディ・スミスによる報告です。
 嵐は普通ビコルを通ります。しかし九月の台風はそれとは異なったものでした。ミレニョ台風(サンサンという名でもしられています)はほとんど何の嵐の前ぶれも見せず、大変なスピードで駆け抜けて、いくつかの地域に壊滅的な被害を与えながらも、他の地域はほとんど無傷だったのです。その後、人々はどうしたらよいかと途方にくれ、又、いくつもの疑問を残されました。
なぜ?
 「どうして私たちなんだ?」オノフル氏は問いました。彼は嵐の直撃を受けたソルソゴン州のバコン地区の一部で政治的に最高の権威を持つ人物です。「千五十の家屋の内、百五十は破壊された。六百の家屋が損害を受けている。地域全体が洪水状態です。ここの住人の多くはココナッツの収穫で生計を立てているのに、木々はめちゃくちゃにつぶされてしまいました。」「新しい実がなるまでには三年はかかるでしょう。そればかりか、今朝デング熱が発生したというニュースまで入ってきたんですよ。」
 「なぜ私の家が破壊されてしまったか、わかる気がするわ」マリア姉はこう言いました。護岸の向こう側に住んでいた彼女と夫の家や他の多くの人々の家を巨大な波が襲い洪水になってしまったのでした。「その2、3ヶ月前に聖書の学び会に行き始めていたの。でもその後、とても忙しくなって、嵐にやられる少し前には行かなくなっていたのよ。」
 「不公平じゃないか。」糖尿病の合併所に苦しむ高齢のホセさんは反論しました。「俺は自分の土地の丘にあるココナッツを他の人が収穫できるようにしていたんだ。それなのに嵐がみんなひっくりかえしちまったんだ。翌朝には盗まれてしまった。雇い人が二日後に行った時はもう何もありゃしなかった。あと数ヶ月、俺は自分の薬を買うこともできないんだぞ。」
 「この嵐はほとんど私たちを破壊してしまったんだ。」アドルフォさんは言います。彼の家とパン工房は谷の下方にありました。嵐は橋の上方の何本かの木をなぎ倒し、水によって木々は橋のところに積みあがってダムのようになり、水はどんどん上昇していきました。水は家の窓の高さにまで達し、そして買ったばかりの小麦粉や塩の袋を押し流してしまったのです。
 「主を賛美しよう」イグナチオ兄はそうささやきました。「私たちの家の古壁を囲んでいた木々の残りを見てごらん。嵐はみんな根こそぎにしてしまった。それなのに、どの木も家を押しつぶさなかったのは奇跡だ。その内の一本の重量だけでも、私たちの家をこなごなにするには充分だったはずだ。そうだったら私たち家族は一人残らず助からなかっただろう。」
 様々な声がミレニョ台風を彼らの人生最悪の災害と呼びます。しかし私が話を聞いた人々の内、何人かは一九七〇年の毎時二百七十五キロメートルのセニン台風、九百七十九人の犠牲者を出した一九八七年のシサン台風、又、約九百人が命を落とした一九九五年のロージング台風のことも指摘していました。被害状況から見て、ミレニョ台風は全域に渡るものではなく、一定の地域に集中して起こった暴風であり、通過地点にあるものはほとんど全てを破壊しましたが、近隣地域への被害は比較的ひどくはなかったのです。
何を?
 九月二十七日の水曜日はいつものように始まりました。ビコラノスさんはぎらつく太陽の中で目を覚ましました。フィリピン政府の観測所は暴風の接近を警告していました。しかし地平線にはそのきざしすらも見えず、住民達はまた観測所は誤ったのだと思ったのです。
 しかし昼までには風が強まり、空は暗くなってきました。午後三時には嵐の最前線はバコンという地に到達しました。三時間もその地を猛攻撃した後に、それは突然止みました。そして台風の目が通過するのに三十分かかりました。
 午後六時半、再び恐ろしい南風が襲ってきました。そして一時間半もの間、けだもののように吠えたけり、通り道にあるもの全てをつむじ風のように力でずたずたにしてしまいました。勢いの少ない嵐は警笛のような音を発するものですが、ミレニョ台風の風はあたかもジェット旅客機の離陸のような轟音だったということです。
 人々は互いにしがみつき、恐怖の叫び声を上げ、多くの人々が神に叫びました。しかしその夜、多くの人々が、もう生き残れないと観念したのでした。
 人々の家は押しつぶされ、バラバラになり、横倒しにされ、トタンの屋根が引き剥がされ、窓も粉々になってしまいました。
 次に襲ってきたのは鉄砲水と泥水でした。この水は人々の財産と暮らしを全て奪ってしまったのです。ある男性は何匹もの自分の豚が必死に鼻を水上に出しながらも流されていくのを見ました。嵐の後、子豚が一匹だけ屋根の上で生き残っているのを見つけました!
 このような暴風ではあらゆるがらくたが投げやりのような勢いで飛んできます。人々は家の外に走って逃げ、飛んで来たがらくたに命を奪われた人もいました。
 公共の乗り物は路上に立ち往生したままでした。車を非難させる場所がなかったために、車体がつぶされたもののあれば、横倒しになったものもありました。
 ソルソゴンの丘々は通常は緑が生い茂る所です。木々や藪は一年中豊かに生い茂っています。しかし、掃除機のような勢いの嵐はこうした緑をはぎ取ってしまいました。それでもかろうじて残った木々も葉はもちろん樹皮まではがされていました。
 バナナの木はめちゃくちゃにされ、アカシアやココナツの木々もなぎ倒され、ミレニョ嵐はいくつもの竹をズタズタにし、引き抜いてしまいました。
 電柱も似たような結果をまぬがれませんでした。木材のものも、コンクリートも、金属のものも、その多くは半分に折れ曲がり、一つが倒れると、他の電柱も将棋倒しに倒れ、歩道を遮断してしまいました。
 二、三時間後ミレニョ台風はレガスピ、ダラガ、アルバイへ移り、激しい攻撃を続けました。さらに左方に向きを変え、クエゾン州へと向う前にカマリグ、グィノバタン、リガオ、タバコ、オアス、ポランギ、からピリ、カマリネススル州を通り、翌日の午後早く、マニラ首都圏に上陸しました。
家の再建 どのように?
 このような被害に対してどう対処したらよいのでしょうか?
 嵐の後、ビコラノスさんは嵐の後の片づけを始めました。枝を切り、歩道が通れるように片付け、土石流をふるいにかけ使用に耐えるものを探し、やがて濡れた衣服がそこら中で干され、濡れた本は地面の上で乾かされました。
 百万人以上の人々が電気なしに生活することに慣らされました。ある家族の一員はガソリンスタンドの長い列に並んで毎日灯油を買い、他の人は一日のほとんどを井戸からバケツで水を汲み続けます。銀行口座を持つ人々は家族の一員をやって銀行の前の列に並ばせます。
 男性は家族の家を建て直すために材料を集め、女性は価値があると思われるものを何でも売り歩きます。学校は閉校なので子供達は好きなところで遊びまわっています。
 OMFフィリピンは支援金をいくつかの場所に送りました。ソルソゴンではOMFは多くの家庭に対し、部分的にも完全な再建のためにも必要な資金を送りました。これはこの地域の彼らに届いた初めての支援です。それによって今までOMFがカルトだと思いこんでいて、良い感情をもっていなかった人々の態度も変化してきました。土地で影響力を持つ人々からも好意を得ることができました。
 バコンだけでも、今二十四世帯が十箇所に分かれて聖書の学び会に出席しています。私たちはこうした集会が家の教会へとやがては成長することを願い祈っています。主が出席者一人一人にご自身を示して下さるよう、どうか祈って下さい。又、嵐の後で自分達の生活を再構築しようとしている人々が、聖霊の励ましと力を受けますようにお祈り下さい。
なぜ?
 アドルフォ兄は賢明にもこう言いました。「困難が大きければ大きいほど、神様の力を体験する可能性が大きいんだよ。」多分これが神がミレニョ嵐がいくつかの地域に達することを許された理由の一部でしょう。多分、神はこの悲劇を用いてこの地の人々をご自分のもとへ引き寄せようとしておられるのでしょう。


「なぜ、人は山に登るのか?」
カンボジア プノンペン 菅家庄一郎、容子

アラスター・カリー宣教師とその家族  アラスター・カリー宣教師は、かつて登山中に落ちて、腕や顔面など複雑骨折し、四リットルも輸血する大手術をして奇跡的に助かった人です。彼がそのような証しを学生達にすると、チャイホア君は、「どうしてそんなに危険を冒してまで山に登りたいのですか。」という質問をしました。それで、アラスターさんと私は交互に次のように返答しました。「西洋の世界観の中心には、神の創造がある。神が創造されたものは、すべて素晴らしい。だから、それを知的にも実際的にも、もっと知りたくなる。しかし、アニミズムに影響を受けた世界観では、山や木々、岩などには精霊が住んでいて、それらを怒らせるとたたりがあると信じているので、山を征服しようというような思いは起こりにくい。」と説明しました。そして、創世記の一章を共に学びました。神様はどんなにすばらしい環境を私たち人類に与えてくださったか、を感動をもって学びました。ソティーさん「神様が造ってくださったもののうち、どれか一つが欠けても人間は生きていけないのではないか。神様が造ってくださったもの中で無駄なものは何一つない気がする。」ソンホン君「科学と宗教は互いに矛盾していて、聖書の記述を信じることは難しい。」アラスターさんの教える地理学部の学生たちの数人と聖書研究が始まりました。聖書の主張を信じてキリスト者になるものが起こされるように、クリスチャン学生はさらに信仰が強められるように、お祈りください。(庄一郎)
新しい学校に変わりました―芽生  一月から、芽生はホープ・インターナショナル・スクールに通うようになりました。私たちは子供が与えられてから、家族としてカンボジア宣教に遣わされていると考え、子供たちもカンボジア語を話し、カンボジア人を愛するようになって欲しいと思い、ずっとカンボジア語の学校に通わせていました。しかし、芽生は、昨年十月以降、クラスの中で孤立してしまうことが増え、学校に行くのを嫌がるようになりました。「どうしてそういう答えになるのか」が教えられず、答えが正しければいい」という教え方にもついていくことが難しくなっていったようです。また以前はあんなに英語に抵抗があった芽生の中に、もっと英語が話せるようになりたいという願いが強くなってきたことも理由の一つでした。
 新しい学校で、沢山のことを学んでいる芽生の姿をみて、また、一人で元気にカンボジア語の学校に通っている結をみて、一人一人をそれぞれ違った個性に創造される神様の業を感じています。それぞれの段階で、私たち一人一人の必要に丁寧に応え、育ててくださる神様の優しさ、忍耐、そして恵みを覚えています。人をその人として育てて下さる神様を覚えながら、私たちもそのように、一人の人と大切に関わり、育てられる主の業の一端を担いたい、と願わされています。(容子)

【祈りの課題】
1.菅家芽生さんが新しい学校(ホープ・インターナショナル・スクール)に変わりました。カンボジア語で学んでいたのが、英語になりました。英語を正しく用いて、友人ができますように。
2.セーンという学生が、3月より日本の新聞会社の奨学金で、新聞配達をしながら、東京の大学に通います。最初は、まず日本語の学びをします。深夜2時に起床しなければならない生活だそうです。日本語や日本文化に慣れますように。健康が支えられますように。ふさわしい教会と良い友人が与えられますように。


「『不可能』のための祈り」
北タイ・ミェン族 有澤達朗、たまみ

お母さん、妹たちと、弁護士のたまご。  「もう引退するんですか?後継者を求めているとは…」
 いいえ。今年中に後継者候補が与えられるように祈っているのは、引継ぎに十年ほどかかるからです。
 神学校三年、日本の教会で奉仕経験一?二年、タイ語二年、ミェン語二年。これはOMF内の共通語である英語習得の時間を除いての話。ミェン語でかろうじて奉仕が始まるまで約十年。この約十年を用いて引き継ぎをします。自信を持ってミェン族教会に奉仕できるのは今から数えて十五年後。十五年後と言えば私たちの停年時期。牧会経験のある方なら、五年で引継ぎができるでしょう。
 約三十年、バージェス師はミェン語聖書翻訳に半生を捧げました。三月十四日からチェンマイで旧新約全六十六巻の印刷が始まります。師の引退後、私たちの働きは完成した聖書を東アジアの約百三十万人のミェン族に広めること。
 またすでに引退したベヴィントン師がタイに一時戻ってきて、私たちと引継ぎをします。内容はタイ国内のミェン族指導者訓練、異端駁論、教材作製、ミェン語識字教育の促進、ミェン語福音放送、アメリカのミェン教会との協力。
 さらに、「聖書翻訳を!」との熱烈なムン族の要請に応えること。ミェン教会を関連五部族への宣教の教会にすること。ひいてはミェン族とムン族からなる宣教チームによってミェン語系の六部族全てに福音を伝えることです。これを着実に、緊急に成し遂げなければなりません。切実です。必死です。
 奇蹟が必要です。だから祈ります。合理的にできることに祈りは必要ありません。私たちがお願いしていることは不合理・不可能なことです。神に召された選びの器が今年興されるように祈り続けていただきたいのです。(達朗)
 先月号に続いて嬉しいご報告を。チェンマイの我が家に下宿していたもう一人のミェン族大学生、フィン君が今年一月にチェンマイ大学の学位授与式に出席できました。経済的に出席は無理、村の母親は無関心だろう、と言っていたフィン君。神様は天使を遣わし両方を実現してくださいました。彼は弁護士になるため試験勉強中です。主の僕として良い働きをしますようにと祈ります。(たまみ)

【祈りの課題】
1.巡回中、タイのミェン族に奉仕するように神様に召された宣教師候補に出会うことができるように。召されている方が神様に応答できるように。今年中に与えられるように。
2.機会を賢く用いて達朗師、たまみ師のご両親、ご兄弟たちに福音を伝えることができるように。聖霊の働きによって救いの必要を自覚できるように。6月にタイに戻る前に、どなたか一人でも救われるように。


「苦しみを通して主を知る」
カンボジア・クロチェ  今村裕三、ひとみ

ディー兄:トム村のディーさん家族。奥さんと末娘。  一月の祈祷課題に、クラチェから、北に二十二キロ離れたトム村のディーさんの為にお祈りしていただきました。トム村のディーさん一家は、かつてカンボジア領土であった、現在のホーチミンシティー出身のベトナム系カンボジア人です。以前のディーさんは、家族を顧みない生活を送っていました。末娘の出産時に彼は外で遊びほうけていて、その場に居なくて助けてあげられず、生まれてきた末娘に障害が残りました。それから、彼は家族のためによく働き、家族を守る人に変わっていきました。そして、今から十年前、クラチェ最初のOMF宣教師の家でのクリスマス会に参加し、福音を聞きました。しかし、その後は音沙汰無く、二年前に、お金のトラブルがきっかけになり、教会の門をたたきました。その後、ディー兄は主を信じ、洗礼を受けました。それから、末娘が暴行を受けるという経験をし、ディー兄の奥さんは、クリスチャンになったからだと、福音に耳を閉じていきました。そんなディーさん家族に、また一つ不幸なことが起こりました。それは、二軒隣りの人が、ディーさんが飼っている豚を盗んだのです。それは百キロを超える大きな豚だったそうです。ちょうどその後、訪問に行ったときに、ディー兄はこう言いました。「クリスチャンだからこんなことをされるんだ。だけど、僕は、彼に文句を言いに行ったりしないでおこうと思う。彼を許したいんだ。でも、妻のために祈ってくれ。彼女は、このことで痛く心を痛めているから。」それから、一ヶ月経ったある日、ディーさんを訪問して様子を伺うと、最近、マタイの福音書五章から励ましを受けていると嬉しそうに話してくれました。特に、十節、十一節を握りしめて生きている。この世では、苦難があるが、自分はイエス様を信じていて、神様の祝福が約束されていることに感謝したいと言います。毎日、神様の約束の御言葉を読み、励ましを受けているディーさんの信仰の成長、家族の救いのためにお祈り下さい。(裕三)
 トレイ氏は以前教会のリーダーでした。彼は元教師でOMFが支援していた識字教育のスタッフとしても働いていたこともあります。教会の中でも高学歴の経験を生かして教会を支えてきました。しかし、一年と少し前に教会のキャンプで、自分の娘が男の子と仲良くしているのにカッと来て娘を公衆の面前で殴ってしまい、リーダーを下り、教会から離れました。宣教師が教会へ帰ってくるように話しをすると「リーダーとしてなら帰る」と言い、話しにならなかったといいます。私たちがクラチェに来てからも時々教会に訪れ、証の時間に説教のような長い証をしていきます。教会で出会うと、彼に一番に挨拶をしないと「私が来ているのに気がつかないふりをするのか?」などと難癖を付けられたりもしていました。前回は証の時間に「教会の人数が減って私は悲しい‥‥。」と泣き出しました。私は周りの人が動揺しないかな?と心配しましたが、教会員はトレイ氏に対して、お年寄りだから仕方がないなといった雰囲気で優しく接していました。確かに礼拝出席者は減り続けています。しかし献金額は逆に増えているのです。多くの人は、段々人が減ってきて悲しいといいますが、同時に、「信仰が正しい人が教会に残っている」と気がついてきたようです。教会員のさらなる信仰の成長とトレイ氏の真の意味での信仰の回復の為にお祈り下さい。(ひとみ)

【祈りの課題】
1.様々な迫害を受けているクリスチャンのために。時には、家族・親類から、また隣り近所から。教会員が御言葉から学び、主の約束と教えをよく知ることが出来るように。そして、地の塩、地の光として、クラチェの地で用いられるように。
2.最近始まったクラチェの教会間での青年スポーツ交流会のために。多くの未信の青年が集っています。この働きが用いられ救われる魂が与えられるように。

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