2009年6月号
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「ミャンマー」
国の将来は明るいように見えました。一九三〇年代のビルマ(後のミャンマー)は劇的な変換期にありました。
かつてはマラリアが蔓延する沼地であったラングーン(現ヤンゴン)は、近代的な港町となりました。あちこちに巡らされた目抜き通りは壮麗で車の行き来も多く、ゆったりとした広さを持つ公園や湖も楽しめるこの都市は、「東洋の庭園都市」とすら呼ばれました。新しい病院や大学も有するラングーンは、東南アジア各国の人々を魅了する、交易と政治の要所だったのです。
その頃は各国で民族主義的独立運動が勢いを増していた時代でした。又、ルーズベルトの「善隣外交政策」の影響もあり、植民地勢力がその植民地倫理に疑問を持ち始めていました。
当時まだ二〇代の青年であったアウンサン(一九一五〜一九四七)は、国内の指導者として急速に人々の注目を集めていました。彼の持つヴィジョンと指導者としての手腕は、彼を英国からの独立を求める民族主義団体「自由ブロック」の指導者へと押し上げていきました。
しかし豊かな繁栄と自由の国ビルマ、という夢は第二次世界大戦の勃発により頓挫してしまいました。ビルマは同盟軍対日本軍の戦闘の場となり、進軍と撤退が繰り返されました。敵国を支援する疑いのある国内のインフラ設備は全て破壊され、ビルマはアジア諸国の中で、日本に次いで最も爆撃を受けた国となってしまったのです。
戦後、独立運動は新しい力を得て復活しました。アウンサン将軍は英領ビルマ政府の行政参事会議長に任命され、首相に相当するような重責を担いました。
一九四七年、アウンサン将軍は英国首相クレメント・アトリーと、一年以内のビルマ完全独立を謳った協定を結びました。彼は又、国内の百五十もの民族グループに対し、ビルマ連合の結成に向けて説得し、十年後の自治国家設立について国民投票も行う、と約束しました。
しかしこうした進展はある日突然ひっくり返ってしまいました。政敵である前首相ウーソーの武装集団により、アウンサンは他六人の閣僚とともに暗殺されてしまったのです。こうして再び、国の希望と明るい未来は打ち砕かれてしまったのです。
アウンサンの後継者ウー・ヌによりビルマは独立を勝ち取りましたが、彼はアウンサンのように国民からの尊敬を得ることはありませんでした。民族間の争い、又、麻薬王、共産党や国粋主義者らの入り混じる権力闘争などで、国内は混乱に満ちていました。犯罪集団が横行し、社会不穏と無政府状態が社会全体を脅かしていました。
このような混沌とした中で、ネ・ウィン将軍が無血クーデターを決行して政権を握りました。彼は就任当初、強権的な政策を採り、ある程度の秩序を回復させ、多くの国民に歓迎されました。しかし同時に、彼はあらゆる反体制運動を容赦なく弾圧し、政敵となりうる存在を即刻排除し、国の財政についても妥当な経済的判断よりも夢判断、占星術、数霊術を重視しました。
独自の「ビルマ式社会主義」の名のもとに、ネ・ウィンは全ての民営産業、学校、病院を国有化し、国内財政の窮乏化を招き、その影響は今日までも続いています。
ビルマとキリスト教
十九世紀初めにアドニラム・ジャドソンによって聖書のビルマ語翻訳がなされた後、ビルマの教会はまずカレン族、そしてリス族、そしてカチン族とチン族へと着実に成長を続け、人々は精霊信仰からキリストへと立ち帰っていきました。しかしビルマ人、シャン族、モン族、ラカイン族の仏教徒達は頑強に福音を拒み続けています。
ネ・ウィンの国粋主義と排外主義により、宣教師は国外退去となり、教会活動の多くは禁止され、キリスト教系教育施設や病院は国有化されました。
ビルマの教会は持ちこたえることができず、やがて消滅してしまうのではないかと多くの人々は心配しました。しかしそのような国の歴史上、最悪ともいえる時代の中にあって、それ以前に例を見ないほどの宣教活動と教会成長が起こったのです。
他方では国内の人口が増え、ネ・ウィンの独裁政権に失望した人々の不満が高まり、あちこちでデモが散発しましたが、治安部隊の介入と活動家リーダー達の長期懲役刑により制圧されました。
一九八八年、本来は穏やかなビルマ国民の怒りと失望は頂点に達したにもかかわらず、政府による通貨廃止が発表され、人々はさらなる貧困と困窮に突き落とされました。そして一九八八年八月、民主化を求めた大規模なデモが発生したのです。軍部の無差別発砲が行なわれ、こうしてネ・ウィンの弾圧により多くの命が失われました。民政は既に存在を失い、同年九月には国は革命寸前の状態にありました。ネ・ウィン将軍は辞任し、軍部を握るソウ・マウン将軍が政権を掌握し、戒厳令を布告しました。
こうした危機的状態の中、アウンサン将軍の娘であるアウンサンスーチー女史が民主化運動の象徴として台頭。彼女は長年国外で暮らしていましたが、病気の母親の看護のために帰国し、それ以来、軍部リーダーらに対して抗議し、民主化を求める人々に団結を呼びかけ、反政府運動の先頭に立ちました。一九九〇年に総選挙が行なわれ、スーチー女史率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝しましたが、軍政は選挙結果を拒否し、NLDのリーダー達を自宅軟禁しました。
一九九二年、ソウ・マウン将軍が辞職した後はタン・シュエ将軍が軍部を掌握し、政権を握りました。政治家として彼は多くの政治犯を釈放し、スーチー女史の自宅軟禁も解除しました。しかし重圧と批判が重なるにつれ、彼は強行路線に傾き、報道規制や以前の政策決定を撤回しました。又、シュエ将軍は、極端な低賃金にあえぐ公務員が、あらゆる方法で行なう政治的腐敗に対して戦うことを誓いました。しかしやがて彼は公の場から遠ざかり、国民の前にほとんど姿を見せなくなりました。彼は新しい行政首都ネピドーを作って移転し、今もほとんど姿を見せません。
最近、二つの社会的危機によりシュエ将軍と国全体が国際社会からの注目を集めました。二〇〇七年八月、原油の急高騰により、何の前触れもなく一夜にして交通機関の運賃が倍に跳ね上がりました。一日約一米ドルの収入の半分以上が通勤費で消えてしまうのです。
散発的なデモが始まり、数週間の内に全国的な運動に発展しました。主要な都市は、路上に出て民主化を求める人々の波で埋まっていきました。
「世俗的な」政治問題とは通常距離を置くはずの、何千人もの仏教僧もデモに参加しましたが、軍がゴム弾や銃の威嚇発射によって群集を追い払いました。その後、デモに参加した指導者の僧侶達が逮捕され、僧院は閉鎖、僧職を剥奪される者たちもいました。しかし時が経つにつれ、町々はだんだんと沈静化していきました。
二〇〇八年五月二日、サイクロンがベンガル湾からイラワディ三角州を越えて首都ヤンゴンを襲いました。暴風と津波は多大な被害をもたらし、十三万人余りの人々が命を失い、二百万人以上の人々が大きな被害を受けました。しかし被災直後の一刻を争う時期ですらも、薬・食料・その他生活必需品の到着が遅れ、救援作業は難航しました。国連と支援諸国からの圧力を受けて初めて、政府は入国許可と援助受け入れを認めたのです。
しかし病む七十六歳の老将軍はいつまで政権の座に留まるのでしょうか、又、かつてはアジアの米倉でありながら、今は大変な貧しさに苦しむこの国の未来はどのようなものなのでしょうか?
長年権力の座にあって、タン・シュエ将軍はますます自らのことを古代のビルマ王の後継者として見るようになっています。そしてかつての王達のように、国民を自分の所有物であるかのように扱い、あらゆる政敵や批判を弾圧し、新しい町々を建設してはそこに身を置いて、彼に忠誠を尽くし、不快な真実は一切口に出さない家臣たちに囲まれているのです。
軍部は国家の中にもう一つの国家を作り、人々の生活のあらゆる部分を支配し、反体制の芽は可能な限り早くに摘み取ってしまいます。政府と国民の間にあってバランスを保つ立場であった仏教僧達も、二〇〇七年の反政府デモ以来、大きくその影響力をそがれ、誰も軍事政権の絶対的権力に対抗できないかのように見えます。国連による制裁措置も各国の足並みがそろわない現状では効果が見られません。
やがて政権交代が行なわれても、この国の将来にはけわしい道のりが待っています。汚職と管理運営の貧しさによって、国のインフラを著しく衰えています。教育と衛生管理システムも悪化しています。国の再建に欠かせない優秀な人材は国外へと流出し、国内に残っているそのような政治家や専門家らの数はごくわずかです。
見通しは明るいとはいえず、世界経済不況により、ますます暗いものにすら見えます。最近の西部地域では収穫高が減少し、人々は慢性的栄養失調から飢餓の段階へ移行する可能性もあります。ミャンマーの現状と将来のために祈って下さい。
「祈りで支える」
カンボジア 今村裕三、ひとみ
このニュースを書いている時はカンボジア教会交友会(FCC)のリーダー訓練会があと二週間余りになりました。FCCの役員代表に準備状況を聞くと、一ヶ月前の準備とさほど変わっていません。カンボジアは、計画を立てて順々に準備をすることがあまり得意ではありません。通常は、本番の数日前から徹夜に近い準備で本番に間に合わせます。そのような手順に慣れていない私たちはいつもドキドキするのです。
今回は、役員にすべて委ねて私たち宣教師は祈りに徹しています。彼らは訓練会の準備(食事・会場・講師接待など)をする能力は十分にあると信じているからです。クラチェで奉仕しているときもそうでしたが、自分が率先して何かをするのではなく、彼らに任せて祈って支えていくことは神様に対する信仰が時として試されます。
また、カンボジアの政治などのこの世のリーダーシップのスタイルはトップダウン型です。私もそれにならって厳しくトップダウン方式で彼らを導いて行けば、思ったように彼らが動いてくれるので成果は出やすいです。しかし、そのようなやり方では、権力争いになったり、自由な意見交換ができずに閉塞してきますし、弟子の足を洗って自らがモデルとなったイエス様の姿と違うやり方になると思います。次号で、FCCリーダー訓練会の様子をお伝えできると思いますが、牧師・リーダーが御言葉に教えられて、キリストに似た者へと成長し、教会員そして地域の人々によい影響を与えていくことができますように、皆さんも祈りで支えてください。(裕三)
どのように宣教を進めていくか?を考えるとき、宣教師には誘惑があります。お金をあからさまに使わなくてもお金を持っていることを示したり、知識を持っていることで相手より優位に立つ事が出来、良くも悪くもそれを利用して宣教することが出来ます。また「人を助けてあげることが出来る」というのは気持ちの良いことで、一見良いことですが、援助を受ける人を自立よりも依存させる恐れが出て来ます。
ある日本人の先輩牧師が「私の教会の宣教団体は貧しくてお金を使えなかった。しかし、そのお陰で日本人自身が教会形成を頑張ることが出来た」と話して下さり励まされました。
宣教師はいずれ、その国から出て行く立場です。ずっとその国にいるカンボジア人が同胞へ伝道できることが宣教の最終目標です。「かわいそうなカンボジア人を今すぐ助けてあげたい」衝動に駆られる事もありますが、半世紀後にカンボジア人が自立して宣教できるように「今」しなくてはいけないことは何なのか?と考えさせられています。同僚の宣教師にその話しをすると、興味深く聞いてくださる方と、そんな先のことなど考える必要があるのか?という二つの反応に分かれます。宣教師を受け入れた経験を持つ日本人としての視点を持ち、カンボジアの宣教に貢献できるようにお祈り下さい。(ひとみ)
【祈りの課題】
1. 6月15日から19日までOMFカンボジアの年会(修養会)があります。霊肉ともによい養いを頂くことが出来ますように。また、その時にしか会えない同僚もいますので、よい交わりが与えられますように。
2. OMFから独立したクラチェ教会とポチェトン教会の歩みのために。それぞれの教会で立てられている牧師とリーダーが御言葉から日々の説き明かしをすることができますように。
「動き始めた青年達」
カンボジア・ニャックルアン 西村信恵
今年に入って青年会に来る人数も減り、高校生たちも友達を誘ってこなくなったことから、青年リーダー達と青年会で何ができるか話し合っている時のことでした。青年リーダーの一人が「ピヤム高校の全生徒が一回は教会に集えるようにしたい、神様がくれたビジョンだと思う。」と言ってきました。では、そのために何ができるか?というところから、招待状を書こう、祈ろう、等の意見のほかに、今教会に来ているクリスチャン高校生を対象に、一日セミナーをしたい、との意見があり、その計画を進めることになりました。セミナーを通して、皆が仲良くなることが第一の目標です。そうすることで、高校で友達にからかわれたり、いやなことを言われても、お互いが祈りの友となり支え合えるように、励まし合ってクリスチャンとして行動できるように、そして、友人に神様のことを伝えることができるようになるように、という願いからでした。セミナー当日、十三名の高校生達が集いました。「クリスチャン学生としてできることは?」とのテーマで進めたのはワチャナー兄弟。「今までにカンニングをしたことがある人?」の問いでは全員が手を挙げ、では、しない、と決めて、行動に移せるか?みんながやっていても、正しくないことはしないと決断し、行動に移すこと、皆で励まし合い祈り合えるように、と励まし、それぞれの学生たちからも、「クリスチャンとして模範となるように行動すること、困っている友人の友となること、証をすること、」と、クリスチャン学生としてできることを話し合っていました。神様との関係づくり、他の人との関係づくりについて私が話し、午後はソッカー兄弟が伝道について話し、自分の証をして学生達を励まし、最後にグループになって祈り合いました。
このセミナーをして良かったことは、これを通して皆が仲良くなって、クリスチャンとしての歩みを励まされたこともありますが、それよりも、このセミナーは初めてリーダーが希望し、重荷を持ち、行われたセミナーであったこと、去年高校卒業の試験に落ちて以来自信をなくし、一切の奉仕から離れていたソッカー兄弟が、自らこのセミナーで教えたいと準備し、青年達を励まし祈ってあげ、自信を少し取り戻したことが、私にとってはとても感謝なことでした。神様がそれぞれに働いておられることを思わされました。
クリスチャン高校生達が、光として学校、家で用いられ、青年会を自分達が作り上げていく会として重荷を持ち、友人達に届いていくことができますように、リーダーのワチャナー兄弟、ソッカー兄弟、スレイモン姉妹も、彼らを支え、導き、青年会を自分達に与えられた神様からの働きとして受け止め、リードしていくことができますように、また、私に知恵が与えられて、うまくそれができるように支え、励ましていくことができますように、お祈りください。
【祈りの課題】
1. 幼稚園の先生をもう2人必要としています。週3日先生を教え、準備を進めているセンウオン宣教師のためにもお祈りください。また幼稚園建設の必要のために。
2. プラサー村から7人の青年達が集うようになりました。(うち2人はクリスチャン)神様のことを信じてそれぞれが救われますようにお祈りください。
「活水泉の今」
日本 木下理恵子
豚インフルエンザの流行が懸念される今、皆様はいかがお過ごしでしょうか。この様な不安な時、主を求め始める人が起こされるよう祈らされます。皆様のいつものお祈り、ご献金をどうもありがとうございます。
台湾の活水泉は、最近新しい場所に移りました。なんと今までの場所の斜向かいで、場所が広くなり、換気もずっと良くなったそうです。以前より広い、古着などを置く場所や、事務所として使える部屋もあり、みなとても喜んでいます。
神学生ご夫妻と、クリスチャンの依存症を断ち切るリハビリセンターの働き人が助けに来てくれる中、呉師が忠実に奉仕を続けています。
水曜日の夜はクリスチャンたち対象の集会で、自分の生活を通しての証しや、活水泉での奉仕に更に加わるようにとの弟子訓練をしています。一般の教会やクリスチャンでは当たり前の事ですが、活水泉のクリスチャンたちにとっては、そうそう自然に出来る事ではありません。先日も一人のクリスチャンが、何とか紹介された仕事を始めたのですが、その数日後酔って出勤したため、辞めさせられました。呉師は「先日集会の後、なんとも言えない、みんなに早く帰って欲しいと言う気持ちが起こった。疲れた。でもその時、一生懸命掃除をしたり、お皿を洗ったり、古着の整理をしてくれているクリスチャンたちの姿を見て、とても慰められた。」と話していました。主が更に呉師を励まし、癒し、用いてくださいます様お祈り下さい。今年は呉師が活水泉の奉仕を始めて七年になり、少し長期にサバティカルな、学びの休暇を取る予定です。最も相応しい場所で、今のそしてこれからの呉師や活水泉に必要な学びが出来るよう、良き計画を立て、準備が出来るようお祈り下さい。
テラ師の萬華の風俗で働く女性伝道も祝され、進んできています。新しく場所を借り、「真珠家園」と言う、女性専用の集会を始めています。台湾人の同労者たちも与えられています。最近は英語教室をした所、こうした女性たちがとても意欲を持って学び、彼女たちが変わる良き助けになる事がわかり、更に料理教室や日本語教室も始めたいそうです。主を受け入れたいと言う人も起こされています。続けてお祈り下さい。
折々、祈りの友の方に活水泉はどうですかと聞かれます。主は御業を続けておられます。この様に台湾のために祈り続けて下さる皆様に心から感謝です。
追記:テラ師より緊急連絡がありました。 活水泉の前で、深夜ホームレスの方が殺されていたそうです。活水泉の知っている人ではなかったそうです。ご近所の前でなくて感謝ですが、活水泉に対する、ご近所の反対とならない様お祈り下さい。活水泉の仲間は余り動揺していないそうです。
【祈りの課題】
1. 活水泉のために。疲れている呉師が今年長期の学びの休暇を取る予定です。最も相応しい所で必要な学びが出来るよう、良い計画を立てることが出来るように。呉師を主が更に守り、助け、癒し、用いて下さるよう。活水泉のクリスチャンたちが生活で証しでき、活水泉の中でも更に奉仕に加わって行ける様に。テラ師の「真珠家園」(萬華の女性)の働きが更に祝され、用いられるように。
2. 中国語集会に来ている台湾人女性のために。日本人と結婚し、何不自由ない生活の様ですが、その心に満たされないものがあります。台湾にいた頃は教会にも行っており、知識はたくさんあります。最近霊的に少しずつ変わってきました。彼女の救いのためにお祈り下さい。
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